先だって、四谷にあります聖イグナチオ教会のメンバーの青年たちがギャラリーを訪問してくださいました。せっかくの機会なので、私が日ごろ感じている事を皆さんにお話ししてみました。とりわけ、明治6年に「切支丹邪宗門」の高札が取り除かれた原因となる、浦上キリシタンの皆さんの金沢での卯辰山幽閉での迫害についてお話いたしました。
この迫害されている浦上キリシタンの様子が横浜の英字新聞に投稿され、それを読んだ英国公使が事実を金沢まで役人を派遣させて確認させたところ事実であることが判明しました。それで日本という国はキリスト教を迫害する野蛮国であると本国に連絡。ちょうどその頃、幕末に結んだ通商条約が日本にとってはあまりに不利であることを念頭に、条約の修正を再締結するため岩倉具視卿がヨーロッパに出かけていた時でした。それで岩倉卿は本国にキリスト教に対する扱いを再考するべきことを連絡したことから、1612年徳川家直轄地から始まる「キリシタン禁教令」更には1614年に「伴天連追放之文」を公布。そこから日本全国でキリシタンは邪宗門であることを宣言し、徳川幕府は厳しいキリスト教弾圧に乗り出しました。それから明治に入ってもこの施策は変わらずに続いていたことで、幕末に発見された浦上キリシタンの皆さんがご存知の様に全国19の藩に配流とされたわけです。その長い間のキリスト教禁教政策が明治6年に終わりを告げることとなったのが、最初に申しました金沢に配流された浦上キリシタンの皆さんのご苦労であったわけです。
つまり、昨年7月に潜伏キリシタンの教会がユネスコで世界遺産として認定されたのですが、その潜伏キリシタンの最初に立てた教会こそ、日本中に配流されて激しい迫害の中を生き延びた人たちによってでした。とりわけ、配流されたキリシタンの皆さんの中で金沢には一番多くの人々が幽閉されて、信仰のゆえに迫害を受け、不当な扱いを受け、最愛の者たちご拷問や非人間的な扱いを受けていましたけれど、生き延び、故郷に戻ることが出来たわけです。そうなると、この金沢でのキリシタンたちへの扱いが人々の目に留まることがあったればこそ、キリシタンは邪宗門であるという高札が取り除かれることとなったということになります。
これは、金沢の街はキリスト教の歴史を大きく変える通過点となっていたということです。かつて高山右近とその家族だけがキリシタンであったのに、26年過ぎて、この加賀という国は「キリシタン王国」だと宣教師に言わしめられるほどキリスト教が伝わっていったこと、その中心にいた高山右近が信仰の故に金沢を追われたこと、そして浦上キリシタンの皆さんがご苦労されたことから、それが日本のキリスト教の流れを変えることとなったのです。金沢ではあまりそのことを語られることが無いので、ギャラリーとしてもこの大事な出来事を更に皆様にお届けしていこうと考えております。