知り合いの牧師先生から、ご自分の所属する団体の機関紙に卯辰山に幽閉された長崎・浦上キリシタンのことについて取材させてほしいというご依頼をいただき、もちろん快諾して久しぶりに卯辰山に出かけてまいりました。
もう、うれしくなるような素晴らしい天気に見守られ、今からおよそ150年前に金沢の卯辰山に配流されたキリシタンたちの幽閉先を訪ねてきました。
カトリック金沢教会が設置した「長崎キリシタン殉教者の碑」は卯辰山の金沢市街からは反対側にある谷の斜面に作られていますから、そこをわざわざ訪れる者もさほどいるとは思えませんが、それでもきれいに掃除されていました。
この場所は実際にはその場所にキリシタンがいたわけではありませんが、そのすぐ足元に浦上キリシタンたちが3つの場所に分けられて幽閉されていた「湯坐屋跡」と呼ばれる場所があります。
卯辰山花菖蒲園にかつて「織屋」と呼ばれる第14代加賀藩藩主「慶寧(よしやす)」公の作った機織り工場があったことや、さらにその上の台地には「養生所」と呼ばれる病院があり(戊辰戦争の前にあった長岡戦争に従軍して怪我をした加賀藩士たちを収容するため作られましたが、怪我が癒えたら病院にいる必要もありませんから、段々と無人になっていきました)そんな織屋跡、養生所跡、湯坐屋跡に長崎から連れられてきたキリシタンたちが生活をしていたことをお話いたしました。
時間はあっという間に立ってしまいましたけれど、その途中で金沢の尾山神社の有名な「神門」をデザインしたとされている旧金沢大学医学部の講師をしていたホルトマンという人物の、金沢で命を落としたお子さんのお墓も足を延ばして見てきました。見てきたというと失礼になりますが、誰も訪れることの無い場所にひっそりと異国の地で命を落とした小さなお子さんのお墓があるということに明治初期の卯辰山界隈に金沢の歴史を、また世界の歴史にも関わりのある者たちの足跡があることを不思議な気持ちで訪ねてまいりました。
今回はある意味取材という形で卯辰山に出かけてまいりましたけれど、殉教者たちの歴史についてお知りになりたい方がおられましたら、お声をおかけください。