本日、館長は9人のお客様方に、高山右近が福者になったことの意味、また、彼がキリシタンとしての足跡を残した金沢城にご案内いたしました。
高山右近が福者となったことの意味とは一体なんであるのでしょうか。
彼は日本人としては単独で福者として認定されました。それだけ彼の生き方を模範にしての信仰の道しるべとなると考えられたからでしょう。
彼の生きざまあるいは生き方が今日に生きる者たちに与える影響があるとするなら、それは彼のように、試練の中でも神を見上げて生きる尊さ、分け隔てなく全ての人と相対する寛容さ、おのれのものを己のものだけと考えず、誰に対しても分かち合う愛の深さ。見習うことができると思います。
とりわけ、カトリック教会だけではなく、プロテスタント教会の側においても、一部ではありますが彼の存在を高く評価しつつあります。これは良好なベクトルであると言えるでしょう。
今後は、彼が残した文化的遺産をどう活用するか。例えば茶の湯、能楽、お菓子、治部煮などを用いた活動の可能性をさらに探る努力をカトリック・プロテスタント両陣営でますます要求されてくるでしょう。
彼の生き方に倣う者たちの出現を希求し、より霊的な信仰生活が送れるように努めることを現在の者たちが求めていくけるように手助けをする必要があると思います。
だからこそ、信仰を持つことでの心の穏やかさ、茶の湯を通して神を見つめる生き方、命がけで日本に来た宣教師たちを励ますために治部煮を生み出していった背景をしっかりと誰もが理解していってほしいと思います。
と言うのも、今は命がけで信仰を守る必要もなく、神を真剣に見つめて生きることに疎くなっている時代であるからです。だからこそ、彼を追い求めていくということは、自分自身が何者であるかを問われることともなっていくのです。
加えて、高山右近追放の240年後に起こった浦上キリシタン幽閉の問題との関連性の理解の必要です。
なぜ、19の藩に分散された浦上キリシタンたちであるが、最も多く金沢に流配されたのでしょうか。
それは高山右近が金沢を一大キリシタン王国に育て、多くの信者たちがかつては闊歩した街であったという理由の他にその他の理由を考えることはできません。
キリシタンたちは最北端の地としてもっとも多く流配されたのです。
このような事実を一過性のものとさせず、歴史的連続性が金沢にあることを理解する必要があるでしょう。
これを機に、カトリックもプロテスタントも手を携えて協力関係を築いていくことが出来ればどれほど良いことでしょうか。さらにそのためにも彼の生きざまを研究する集まりが定期的に実施されたならと思います。
ところで、7月に予定されているグレゴリオ聖歌を歌う会、ご希望の方はおられませんか?
おられましたら、ぜひともご連絡ください。
「今日の一枚」
ひがし茶屋街方面へと続く浅野川大橋。蔦の絡み具合がまた、ノスタルジックです。